踏み切り考

  昨日、JR三鷹~国分寺間で高架への切り替え工事があった。
 家に帰る時間には、電車はまだ完全には止まっていなかったのだが、かなりの間引き運転だったので、西武線、武蔵野線を利用して帰ってきた。
 全体、高架にすることでどのような利点があるのか、帰路あれこれ考えを巡らした。
 利用者側としては、見晴らしが良くなる事ぐらいだろうか。ホームが高くなるが、今でも階段の上り下りはあるので、特に不都合はない。高架の駅は冬場風が冷たい。これは余り有難くない。
周囲の環境としては、踏み切りがなくなることで、道路状況がかなり良くなるだろう。しかしどう考えても電鉄会社が乗客の眺望や道路事情のために莫大な予算をかけて高架にするはずが無い。踏切事故が無くなる。ということも考えられるが、飛び込み自殺するやつは所かまわず駅でもするしなあ・・・。結局結論らしいものは出ずじまいだった。今度駅員に聞いてみよう。

 そうしてみると、高架にすることで最も恩恵を受けるのはだれなんだろうか?
 踏み切り渋滞が無くなる、という点では諸々のドライバーにとっては有難いことだ。しかしこれとても、たまさか踏み切り渋滞に遭遇してしまった人には迷惑この上ないことだが、いつも通っている人には想定内のことであろう。
 踏み切りで渋滞にハマってイライラしたことがある人は多いと思う。斯くいう私も時々そんな状況にハマルことがあるが、よくよく考えると、「なにをそんなに急いでいるのだろうか・・・?」というところに行きつく。
 親が危篤だ!といえば、そりゃあ急がねばなるまい。でもそんなことは長い人生の中で言えば普通は二回しかないことだ。連れ合いがいたとしても、せいぜい四回だ。その他に危急を要する事ってそれほど多くは無いと思う。してみると、踏み切り待ちのイライラっていうのはどーも大したことではない、ってーのがほとんどなんじゃないのかな。

 私事で恐縮だが、踏み切りで電車待ちしているとき度々思うのは、過ぎ行く電車を眺めつつフッと脳裏をよぎる、「あー、どこかに行きたいなあ~。」っていう気持ち。
 二十代の頃、漂白とか流浪に憧れた一時があった。頭の片隅にそんな青春の澱みたいなものがこびりついているんだろうなあ。尽きせぬ思い、かなわぬ願い、嗚呼、演歌の世界だなあ。よーし、もう一杯いこう。

 そんな訳で、高架されればそれだけ渋滞も無く効率も良くなるのだろう。それはそれでよい。でも、人にはそれぞれその人にあった時間の流れがあってしかるべきだろう。なにも最速に合わせる必要など全く不要なんじゃないかなあ・・・。

 これまた私事だが、陶芸をやっていて思うこと。、ま、いろいろ釉薬の調合をするわけだが、いろいろやっていて思うのは、化学的に精製された原料を使うよりも、天然の原料をつかった方が焼きあがったときの深みとか力強さみたいなものが断然良い。当然だが天然原料というのは様々な夾雑物が混じっている。それが精製されたものには無い深みを与えているのだろう。
 家庭料理を見ても、煮物などはそれぞれの地方や、あるいは各家庭によって、みな秘伝みたいなものがあるだろう。なかんずくカレーなどはその家ごとの隠し味のオンパレードだ。

 全て効率優先の世の中だが、一見無駄に思える行為や時間、そんなものでも私は無碍に扱いたくない。踏み切り待ちの時間とて、そのどーでもいいような時間が案外人生の隠し味になりえることもあるのだと思う。



 

 
by katabami03 | 2007-07-01 19:30 | 私は思う。(日々雑感) | Comments(0)
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