とまあイギリス語で決めてみた(決まってないか)。
学生の頃よく聴いたレコードの一つに、ソニー・ロリンズの「マイ・フェイバリット・シングス」というのがあったんですね。それでまあ、ボキャ貧のrisiだけど頭の隅にこびりついている言葉というのがいくつかあって、この「マイ・フェイバリット・シングス」というのもなぜかその一つなんだなあ。
で、なんでそんなことを想い出したかというと・・・コレだ。
すでに何度か登場しているわが家の泥鰌。
冬になると水草がなくなってしまうので、ドジョウは底に潜んでしまうのだけれど、水草があるときはこんな感じで全くの無防備。いつも大体ここにいるんだ。それでもってここが彼のお気に入りの場所なんだろうなあと・・・・・。
・・・そんな訳でフェイバリット。
ところで最近世渡り上手なオッサンが「自分は泥鰌」みたいなことを言ったそうだが、オイオイ、あんた、ドジョウは人さまの顔色をうかがったりしませんよ。泥鰌に失礼だ。
ともあれ近くの公園で捕まえてきたこの泥鰌もわが家のペットになってかれこれ二年。
金魚のエサをあげているのでご覧のようにスクスクと成長。日中はお気に入りの場所でまったり、食べ物にも不自由することなくこのまま静かに老後を迎えるのだろう。
唐突だが何が幸せなのか、ということを想ってしまうわけだ。
わが家の泥鰌、一見なに不自由することなく生きているわけだが、この狭い水槽の中での豊かな暮らしと、生存競争は厳しいかもしれないけれど、限りない自由が得られる広大な池での生活と、一体どちらが幸せなのだろうか。
う~ん、なんとなく哲学してしまう秋の夜長。